ウガンダでは
日々食べていたものの、決して作ったことのないウガンダ料理(マトケ、ポショ、牛シチュー)を、あえて日本で作ってみた。
たまたま、結婚式の2次会の幹事をしていただく友人宅にお呼ばれしたので、せっかくの機会なのでつくってみることに。。
まずは材料の調達から。ウガンダから全く食材を持って帰らなかったので、全ての材料を日本で調達。
Fianceeがネットでアメ横にある
カワチヤさんなるアフリカを含む世界各国の輸入食材店でトウモロコシ粉が手に入るという噂を聞きつけ、さっそくいってみることに。
お店に入るといきなり、アフリカンな人々がいて、どこから来たのというとガーナだそうな。ま、あんまりウガンダとは関係ないけど、とりあえずアフリカ(なんとどんぶりな・・・)だし、ウガンダで一回だけガーナ料理を食べたことがあった(これまた薄っぺらな知識)ので、ちょうどウガンダから帰ってきてガーナ料理のFuFu(フーフー:キャッサバの粉を練った日本の餅みたいな料理)とか知ってるよ、と言ってみると、これだけでかなり話が盛り上がってしまった。日本のアフリカ社会はかなりせまい??
トウモロコシ粉は無事GETし(←の右の袋)、そしてさらに日本では確実に手に入らないと思っていたマトケ(←の左の青いバナナ)らしきもの?までGET!3本で400円とウガンダでは軽く10倍以上のありえない価格だが、日本の金銭感覚では安い安いと即購入。
まずは、マトケから。
この青いバナナを、
包丁で皮をむいてみると、なかから白い実がでてくる。噂どおりヌメヌメしてむきにくい。。
ざく切りし、15分ほどBoilすると、実が見覚えのある黄色になってくる。
そして、マッシュポテトの要領でマッシュ!
完成!マッシュがあまく、すこしボソボソ感はあるものの、かなり本場に近い感じに仕上がった。
次はトウモロコシ粉をつかったパンのようなポショ。
とりあえず、Web上でみつけた
レシピを参考に見よう見真似でつくってみる。
トウモロコシ粉を、
水で溶き、弱火で加熱し、
蒸し焼きにすると、最後はこんな感じに。。
火加減が非常に難しく、本場のふわふわ感は全くなく、ボソボソ・ボロボロだが、なんとなくそれっぽいものができた。
最後はソース(牛のシチュー)。
これまたWebで見つけた
レシピを元に。
肉はウガンダの固ーい感じをだすために、あえて和牛でなくオージービーフを採用。これをたまねぎ、トマトなどと炒めて、
塩、カレー粉で味付けして煮込めば完成。このスープは間違いない。ちょっと色気を出して、本場よりも野菜が盛りだくさんに入ってます。。
日本で手に入る食材で、ここまでウガンダ料理ができると思わなかった。ウガンダで毎食のように食べてほぼうんざり気味だった料理も日本では貴重に見えるから不思議。。味はともかく?皆初めてのウガンダ料理ということで、ものめずらしがって食べてくれた。今後はもうちょっと場を重ねて、より本場の味に近づけていこうかな。
たった5ヶ月、されど5ヶ月。いろいろ盛りだくさんな5ヶ月だったが、とくに大きなトラブルに見舞われることなく無事生還!
帰国後真っ先にしたかったのは・・・
まずはこれ↓(@関空)
その次これ↓(@Home)
やっぱり日本食が一番!
そして通勤ラッシュに目を回しつつ・・・
ネットのチョッ速さに超驚愕!!ブロードバンド(死語)ってすごいです。。
いやあ、日本ってあらためてすごい国ですなあ。
まだまだ書き残していることがたくさんあるので、このBlogはしばらく継続。。。
思い出深いKisaasiの住居とも今日でお別れ。
はじめ来たときは、Kampalaで活動するのに、なんでこんな僻地に住居が・・・と正直中心部での住居がうらやましかった時期もあったが、おそらく中心部に住居があったらウガンダのローカルの生活を体験することなく終わってしまっただろう。いまとなっては、Kampala郊外でもローカル色豊かなここKisaasiでの生活が体験できたことに非常に満足している。
最後の日は、引き上げのための家財一式の処分(懸念していたが、ご近所さんを呼んでなんでも持っていってくれ!と家を開放したら、ものの1時間であっというまに片付いてしまった)と荷物整理に追われながら、最後に撮りためていた写真を持ってご近所さんに挨拶まわりをすることにした。
↓は家の敷地の外のすぐそばに住んでいるガキんちょ。彼らは私のことをムズングー(外国人)ではなく、ちゃんと名前で呼んでくれ、また物やお金をせびることもいっさいない。もう少しはなれた場所の子供達は、会うたびに"Give me 100Ush(≒5円)"と挨拶代わりにいってくる。この違いはどこから生まれるのかな?と思っていたが、彼らの母親に会ってみると一目瞭然。元々学校教師だったらしく、非常に人間ができた教育者であった。大切な友達である彼らに最後に一人ずつとった写真を渡すと非常に喜んでくれた。
次は敷地内のご近所さんとアスカリ(警備員)。↓はアスカリの青年で、敷地内の警備小屋にフィアンセと二人で住んでいる。彼も人間ができた非常に信頼できる人物で、盗難などの被害を心配することなく、安心して生活することができた。
↓は近所の売店のおやじ。むっつり顔だが話してみると非常に愛嬌があり、水や生活消耗品の購入はここで全てまかなうことに決めた。
最後はほぼ毎日のように食事に通った近所のホテル。毎回同じものを注文するので、”いつもの”で通じるようになった。こちらも最後に挨拶すると非常に寂しがってくれた。
これでKisaasiでの生活も終わり。写真の裏に住所とメールアドレスを書いてみておいたが、彼らと連絡がうまくとれるかは全くわからない。今後ウガンダに戻ってくる機会がいつあるかわからないので、これが今生の別れになる可能性大ということを思うとややしんみり。まさに一期一会。その日の出会いを大切にしよう。
聾学校 ~ そこは静かで陰鬱な場所を想像していた。
が、想像とは全く異なり、ハンディキャップを感じるさせることなく、キラキラとした、とてもにぎやかな空間だった。
今回訪れたのは、聾学校で活動している言語聴覚士の隊員の方。私と同じく首都カンパラで家も近所ということもあり、非常に親しくしていただき、せっかくの機会なので訪れてみることにした。
まったく門外漢なので、まずは言語聴覚士ってなんでしょう?というところから。何回か説明してもらったのだが、あまりの畑違いでいまいち理解ができていないので、もう一度おさらい。
<定義>(
Wikipediaより)
言語聴覚士法に基づき、言語聴覚療法(音声機能、言語機能、摂食・嚥下機能、又は聴覚に障害のある者に対し、その機能の維持向上を図ることと言語訓練その他の訓練、これに必要な検査及び助言、指導その他の援助)を行うコ・メディカルの一つで、教育機関、保健福祉機関、医療機関で幅広く活動している名称独占資格である。 国家資格としての歴史は比較的新しく、資格化以前は「言語療法士」、「言語治療士」等の呼称が用いられていた。
うーん、難しい。。ものすごくシンプルにまとめると”聴覚障害がある方に対するケア”ということでいいのかな?
聾学校は言語聴覚士のごく一部の活動範囲らしいのだが、私が見させていただいたのは”聴覚障害がある聾学校の子供たちに言語の発声の仕方を教える”というものだった。
←が今回訪れた聾学校の校舎。子供たちは非常に明るく、外部訪問者の我々の姿を見つけるとキャーキャー騒いで近寄ってくる。
とくにカメラが大好きで、撮って撮ってときりがない。
だんだんエスカレートし、しまいにはカメラの前でいかにアホな顔が出来るかを競い始める(笑)
←が教室の風景。この日はSign Language(手話)を使った劇の練習をしていた。みんなSing Languageに顔の表情、表現豊かである。
子供たちはSign Languageを使って積極的に話しかけてくるが、いかんせん私はほとんど理解ができず、身振り手振りでなんとなくコミュニケーションするのが精一杯。
ここを訪れた訪問者は子供たちからSign Name(手話での名前)をつけてもらえる。早速にわかに覚えた手話で、私がつけてもらった名前を披露。
=私の
=名前は
=XXです
(←がつけてもらった名前。どうやら鼻から両サイドに伸びる線が私の顔の特徴らしい。。)
何人かの生徒を教室の外に集めて、言語聴覚士の方の発声指導が始まった。耳が聞こえない子供たちのために発声方法を指導するとはどんなものであろうか?
あまり難しく教えても意味がないので、まずは飛んだり跳ねたり楽しみながら体を動かすことから始めて、みんなで口を大きくあけて喉元を意識させながら”アー”とか"ウー"とか”オー”とか見よう見まねで母音の基本的な発声の方法を体にすり込んでいく。
母音の次は子音。子音は"パ"、"バ"、"マ"などの唇の使い方や"タ"、"ラ"などの舌の使い方を耳が聞こえない子達に教える大変な作業だ。←な感じの上顎の模型を使いながら舌の使い方を分かりやすく説明していた。
他の隊員の任地でもそうだったが、相手に楽しみながら何かを取り組ませるには、まず自分が楽しんでやることが第一のようだ。この方も自然に(好き勝手に?)自分が楽しみながら、生徒と楽しく発声指導をしていた。
最後にみんなでポーズ。
日本でも聾学校って訪れたことがなく、短い時間であったが非常に貴重な経験となった。この日印象に残ったのは、耳が聞こえないという大きなハンディキャップを持った子達がどういう顔して生活しているのだろうか?という心配を払拭するほど、キラキラした子供の笑顔であった。
また、言語聴覚士とは、生身の人間相手の真剣勝負の大変な仕事ということも充分感じることができた。
この日も普段自分が全く関わることのない職業の人達との交流という、青年海外協力隊の醍醐味の一つを存分に味わった一日だった。